h29-6-17 安房里見家終焉の地、館山城に行ってきました。
<図表は武家列伝庁南武田氏より拝借しています。>
房総半島の先っぽ。
都心からは遠かったですね。
<図表はhosokawa氏のブログより拝借しています。>
それでは安房里見氏すごろく。
1500年ころ、亨徳の乱の最中、房総半島の先っぽの安房の国(4.5万石)に上陸してスタートした里見氏。
一族の内訌を乗り越えて、1530年ころ、一時は上総全土(38万石)はおろか下総にまで勢力を広げてブイブイいわせておりました。
その頃は、おそらく50万石くらいの大大名。(⇒)
麓から山頂を見ています。標高は70メートル位。
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(⇒)戦国末期、同盟していた越後の上杉謙信が小田原の北条氏の巻き返しにあい関東から全面撤退して、(⇒)
山頂には模擬天守閣が建っています。
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(⇒)前後して名将里見義堯が亡くなると、宿敵北条氏に一方的に抑え込まれていきます。
それでもしぶとく抵抗して、安房一国と上総の半国をなんとか保っておりました。
その頃はざっと20万石くらい?。(⇒)
山頂から館山湾です。
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(⇒)1590年、そこに豊臣秀吉による小田原征伐という天から恵みが降ってきて、長年の宿敵を自分の手を汚さず倒してもらいました(棚ぼたラッキー)。(⇒)
館山城からさらに10キロ先の洲崎灯台まで行ってきました。
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(⇒)が、戦後の処理では味方のはずの秀吉に難癖をつけられ、突然上総半国を取り上げられてしまい、4.5万石と振り出しに戻ります。(⇒)
東京湾の対岸に北条氏の領地、三浦半島が薄っすらみえます。対岸まで近いですね。北側の富津岬からであればもっと近いです。あいにく今日は富士山は見えません。
里見の家臣団は、しばしば海賊行為を繰り返しては三浦半島を荒らしていたようです(岩井三四二著、がっけぷち侍)。
また、話は逸れますが古墳時代、畿内の勢力や文化は東海道沿いに東に進むと、東京湾の沿岸部である利根川、荒川、多摩川河口の陸地を通らず、三浦半島から房総半島に海を突っ切っていたようで、当時の房総半島は、これら河川の下流域、今の東京中心部よりずっと先進地だったらしい。(私の武蔵の国歴史考より)
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(⇒)話を戻しますと、1600年、天下分け目の関ケ原の戦では、里見家は東軍の家康側に付いたため勝ち組に。
恩賞として常陸(茨木県)に飛び地の3万石などが加増され、江戸時代になると館山藩として認知され12万石まで盛り返します。
しかも徳川家の譜代の重臣、大久保忠隣の娘を嫁にもらい、ヤレヤレこれで益々安泰、と安心するもつかの間、大久保長安事件に巻き込まれ安房の領地は没収、なんと遠く伯耆(鳥取県)に国替え、飛ばされてしまいます。
それでも山陰は片田舎にさえたどり着けば3万石の領地をgetできるはずが、幕府直々のヤルヤル詐欺にあい、現地に入ってみるとたったの数千石。
しかも、そのわずかな支配地すらも近隣大名の家臣に横領され、里見の殿様とその家臣団はとうとう一文無しに。里見主従は遠く鳥取の地で憤死してしまい、ここでゲームoverです。
家を保とうと頑張ったのに、歯車が悪い方悪い方に回転して、最後は没落。
あぁ~、かわいそう。
安房里見氏の末路を知れば知るほど、あまりの非情さに胸がいっぱいになりますね。
ということで関東戦国史って、どの中小大名をみても儚なく悲しい結末が待っています。
こんなストーリーって人気のテレビドラマでもそう無いでしょ、なんか萌えない?
もともと興味も無いのに複雑すぎて、少しも萌えない。(カミさん)
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