2018年6月7日木曜日

h30-7 関ケ原、大垣城、佐和山城跡

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大型連休を利用して関ケ原古戦場に行ってきました。


まずは信長の居城、岐阜城、典型的な山城です。
晴れておれば濃尾平野が一望でしょう。

連休で混んでいて駐車場がなく、城に入れませんでした(残念)。

信長が美濃に侵攻する前は、稲葉山城といいました。
長良川が城の北側を流れており、天然の堀となっています。

信長が乗っ取る前は斎藤道三(司馬遼の国盗り物語では、道三も英雄扱いですな)の城でした。
この斎藤道三(小生のペンネーム、dosanもここからとっています。)、父は京の油売りだったそうですが、主家の長井家(守護土岐氏の守護又代)を謀略で滅ぼし、次に長井家の主家、守護代の斎藤家を乗っ取り、斎藤の姓を名乗ります。
そして1542年、守護の土岐氏を追放して美濃(今の岐阜県の南半分)の国主に収まりました。

ところで関ケ原の合戦に岐阜城が関係あるかって?
歴史好きには周知のことですが、関係は大ありです。

時は流れて、1600年、信長の嫡孫が石田三成の西軍として岐阜城に籠城しておりまして、東軍の福島正則に攻められ開城しております。

【大垣城です】
混んでいる岐阜城は諦めまして、大垣城に行きました。
ここも関ケ原合戦に大垣城が関係あるかって?
ここも関係は大ありです。
三成の西軍本隊は関ケ原の前日までここ大垣城に籠っておりました。
岐阜城を攻め落とし、大垣城の北方、赤坂に布陣した東軍の家康本隊は、東軍が長躯して関ケ原を超えて、琵琶湖東岸に乱入して三成の居城、佐和山城を落とす、と流言を流しました。
しかも関ケ原の要害の地、松尾山には向背さだからぬ小早川秀秋が15000で陣取っています。
結局、三成の西軍は関ケ原にまんまとおびき出されました。野戦に引きずり込めはこっち(家康)のもの。

【関ケ原の三成陣地です。】
天下分け目の決戦では、家康は南宮山の毛利には日和見をさせ、松尾山の小早川秀秋に寝返らせて、一気に勝敗を決しました。
【町おこしでしょう、三成、島左近を爆アゲしています】
生涯に渡って甲斐の信玄に圧迫され、死地を何度もくぐり抜けてきた家康にしてみれば、秀吉の庇護の元で出世してきた三成なんて赤子の手を捻る如きであったでしょう。

でもね、西軍の別動隊、15000を率いた猛将、立花宗成が1日早く関ケ原に到着していれば、勝敗はどう転んだかわかりませんね。
小早川秀秋は400年たってもワルキャラのままですね、カワイソウ。


関ケ原を滋賀県側に峠を越えて、三成の居城、佐和山城に来ました。
佐和山城の全山が、実はお寺の私有地で、勝手に入るな、との立て看板。
これでは城を使っての町おこしはできませんね(残念)。
関ケ原の戦後、佐和山城の石垣などは井伊家の彦根城にそっくり持っていかれたそうです。
佐和山城の山頂です。琵琶湖が一望でした。

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