2017年6月11日日曜日

h29-8 庁南城

h29-6-10 庁南城

比高10メートル位ですか。

前回の真里谷城、久留里城の続きになります、マイナーな関東戦国史。

享徳の乱の最中、古河公方に敵対する関東管領上杉氏の飛び地、上総を奪ってこいと、上総に派遣された武田信玄、ではなくて武田信長。織田信長、ではなくて武田信長(くどい)。

図表は武家列伝庁南武田氏より拝借しています。

上総武田氏は武田信長の孫の代で三家に分かれました。
一つが先日行ってきましたた真里谷城の真里谷武田氏。
次に久留里城に入った一系(安房の里見氏に獲られちゃいましたが)。
もう一つが今日行ってきた庁南城の庁南武田氏です。

いや~、道標が少なく迷いました。
一般道に車を置いて、田んぼの中の一本道を500メートル程歩きます。
左手の森が庁南城の城址のようです。
超マイナーな話ですが、上総武田氏の本家筋は庁南氏だったようです。
庁南城はこの森の中ですかね。

上総武田氏は三家を合わせると、最盛期は数十万石の大勢力だったようです。
森の中へ一本道。
分家筋の真里谷氏が信清(恕鑑)の代で最盛期を迎えたのに比べ、本家庁南氏はパッとせず、歴史の舞台から消えてしまいました。
庁南城跡も城の遺構もほとんど無いらしく、ここが本当に城跡だったのか確証が無いようです(嗚呼 悲し)。
分家の分際で小弓公方を担いでブイブイ言わせた真里谷信清(恕鑑)も、息子の代で分裂。
息子同士で内紛を起こして結局は衰退。
戦国の中期から末期、上総武田家の広大な領地は里見氏と北条氏の草刈り場になっちゃいました。

小径の終点に朽ちかけた神社がありました。

ああ無常、悲しすぎてなんか萌えない?
全然萌えない(カミさん)。

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