今日も赤点すれすれの夏休み自由研究です。
(勝手にやってます。)
千葉県の臼井城と本佐倉城に行ってきました。
この辺りの旧国名は下総の国ですね。
臼井城は戦国時代は千葉氏一族(原氏、馬加千葉氏)の居城。
千葉氏といえば、桓武天皇の血を引く、超が3つ付くぐらいの名門。
千葉氏に比べたら織田信長なんて、どこぞの馬の骨、といったレベル。
泣くよ坊さん平安京(794年)の桓武天皇の子孫に高望王っていう人がおりまして、この人のひ孫が関東で引き起こしたのが、かの無名な平忠常の乱(1028年)。
この乱は平将門の乱(939年)より大規模だったんですが、有名作家にちっとも書いてもらえず、平忠常さんは傑物ながらいまだに無名。
この忠常の5代後に下総の領主千葉常胤と、同じく上総に広大な領地を持つ同族の又従兄弟、上総介広常の二人が出てきまして、源頼朝の挙兵を後押しします。
頼朝のカミさん、北条政子の実家の手兵が数十人くらいだった時に、この二人の動員兵力はおそらく桁違い。
二人がいなければ頼朝も平家を倒せていないし、この二人が鎌倉の武士の世を切り開いたようなものですね。頼朝なんて貴種というだけで担がれる神輿だわ。
そんな超名門千葉氏も、時代が下がると内紛を繰り返して衰えていきます。
そして関東戦国時代、享徳の乱(1455年~)のどさくさに付け込んで、分家の馬加(まくわり)千葉氏が本家を乗っ取ってしまいます。
ところで幕張メッセの千葉県の幕張。もとは馬加(まくわり)からきているようですよ。
そして今回の臼井城。
関東戦国史の舞台に臼井城は2回出てきます。
〓 臼井城に到着です。〓
1回目は、本家千葉氏の遺児、千葉自胤(よりたね)を擁して扇谷上杉氏筆頭家老の名将太田道灌が、馬加千葉氏の籠る臼井城を攻め立てました(1479年)。
〓 名称が無いんですが、二の丸かな。〓
迎え撃つ臼井城城主は馬加系の千葉孝胤(のりたね)です。
この時は名将道灌の攻勢をしのぎ、臼井城は落ちませんでしたが、結局は優勢を維持できずに千葉孝胤はこの城を退去、本佐倉城を本拠地に定めます。
〓 土橋を渡って本丸に行きます。〓
2回目の舞台は1566年。
相手は越後の虎、上杉謙信です。
〓 北側に印旛沼が見えます。〓
臼井城は小田原北条氏側でしたので、上杉謙信に攻め立てられてしまいます。
上杉謙信は1560年から毎年のように関東越山を繰り返しますが、1566年は数えて6回目の越山。
〓 城全体が沼地に囲まれており天然の要害となっています。〓
ところが常勝謙信はここで大敗をブッコいてしまい、以後南関東を荒らすことができなくなりました。
〓 駐車場から反対側に下りてきました。〓
ということで、この「臼井城の戦い」は、関東戦国史の転換点。もっと有名であってもいいと思いますけどね。
〓 石碑がありましたね。〓
なんでこんなところまで来るんだよ、謙信。
それに大敗までブッコいて(泣)。
〓 この城で小田原北条氏が上杉謙信に打ち勝ったと書いてあります。〓
ただっぴろい草原を数1000キロ移動するジンギスカンより、越後の春日山城、今の新潟県上越市から三国峠を越えて関東平野を縦断するほうがよっぽど大変だったろうに。
〓 馬加千葉氏と本家の千葉氏(武蔵千葉氏)の確執が書いてあります。〓
もっとも、通り道の佐野氏の居城、唐沢山城は行き掛けの駄賃とばかりに、謙信に越山のたびにボコられました。
〓 つぎに、本佐倉城にやってきました。〓
〓 車を路肩に置いて、城を探しに行きます。〓
〓 周囲を歩いていたら有りました、詳細な看板。〓
〓 どうやら北側が正規の見学ルートで、私たちは南側の裏手に来てしまったみたい。〓
〓 東側に歩いて回ると駐車場もあったんだね。〓
〓 正面玄関に矢立がお出迎え。〓
〓 看板を見ると、もの凄い大規模な城じゃないですか!!
当時は難攻不落の名城。馬加千葉氏の本拠地になるのも納得。〓
〓 親分の小田原北条氏も、生意気だから、目障りだからと簡単にボコれないわ。〓
〓 小径を登っていって、〓
〓 城山曲輪に入ります。〓
本家千葉氏の遺児、千葉自胤(よりたね)は一時勢力を盛り返しますが、大田道灌が主君の上杉定正に暗殺されるという大事件が起こると、道灌の後ろ盾を無くして本家千葉氏は衰退。
〓 城山曲輪です。〓
馬加千葉氏の方も、戦国も後期になると、北からは佐竹、南からは上総武田やら、里見やら、小弓公方(おゆみくぼう)が進出。
小弓公方さん、とは随分とマイナーでんな。
〓 奥の山曲輪に向かいます。〓
西からは新興勢力の小田原北条氏に圧迫され、独力では領国を維持できず、本拠地は本佐倉城のまま、小田原北条氏の傘下に入り、一国人まで落ちてしまいました。
〓 奥の山曲輪です。〓
秀吉の小田原征伐では、小田原北条氏側に属していたため、連座して、馬加千葉氏の領地は没収。
〓 お城の規模が大きすぎて、今日は一部をかじるだけでした。〓
平安時代からの名族千葉氏もここでお家断絶です。
〓 奥の山曲輪から南側裏手に下りてきました。〓
しっかし、定正もほんとアホだねー。
戦上手の扇谷上杉定正が、嫉妬に駆られず名将太田道灌を謀殺していなかったら、、、、
〓 裏手の入り口、妙手神社です。〓
もし道灌と定正がタッグを組んでいたら、扇谷上杉が関東に覇を唱えて、その後の小田原北条の関東侵食も、謙信の越山も、武田の上野侵略もなかったのでは。
それどころか関東から日本全国に覇を唱えていたかもしれん、と楽しい想像が膨らみます。(勝手にやってろ。)
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